三島由紀夫の日本刀「関の孫六」の真実!偽物説と現在の保管場所
1970年11月25日、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で発生した「三島事件」。稀代の文豪・三島由紀夫が自らの命を絶ち、戦後日本の精神史に強烈な爪痕を残したこの事件の中心には、常に一振りの日本刀が存在していました。彼が最期の瞬間まで携え、自決の儀礼と介錯に用いられた刀こそ、名刀として知られる「関の孫六(孫六兼元)」です。
文豪がなぜ近代兵器ではなく日本刀を選び、どのような執念でその一振りを手に入れたのか。長年囁かれ続けてきた「真贋論争(本物か偽物か)」の真相や、事件後に警察へ押収された愛刀の現在の保管場所に至るまで、関係者の証言と歴史的資料をもとにその全貌を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:三島由紀夫が自決時に携えた愛刀は「関の孫六」の銘が入った軍刀拵えの一振りであり、自らの美学と死生観を体現する象徴だった。
- 要点2:刀剣鑑定界で議論された「本物・偽物説」は、室町期の本工「二代兼元」ではなく後代の兼元(または幕末前後の作)とする見解が有力視されている。
- 要点3:事件後に証拠品として押収された刀は裁判後に遺族へ返還され、現在は一般公開されることなく厳重に保管されている。
【愛刀の正体】三島由紀夫が選んだ「関の孫六」の銘と驚きの入手経緯
三島由紀夫が最後の行動を共にした刀は、美濃国(現在の岐阜県関市)の著名な刀工集団に由来する「関住兼元(関の孫六)」の銘が刻まれた日本刀でした。刃長はおよそ二尺三寸五分(約71.2cm)、反りは浅く、刃文には孫六兼元の代名詞である「三本杉」が鮮やかに浮かび上がる実戦向きの一刀です。
三島がこの刀を入手したのは、事件の約半年前となる1970年春頃のことでした。民兵組織「楯の会」の結成や自衛隊への体験入隊を通じて軍事的な身体性を研ぎ澄ませていた三島は、単なる美術品としての刀剣ではなく、実際に佩用し実用に耐えうる刀を強く求めていました。そこで刀剣商や武道関係者の仲介を経て、元軍人の遺品であった軍刀身を買い取ったと伝えられています。
入手後、三島は正規の銃砲刀剣類所持等取締法に基づく所持許可を正式に取得し、儀礼用の優美な白鞘ではなく、革で包まれた陸軍将校用の「軍刀拵え」に刀身を収めさせました。この拵えには、自らが率いる楯の会の精神的支柱として、常に有事の覚悟を身に纏うという強い意志が込められていました。
なぜ日本刀だったのか?三島由紀夫が刀剣に託した思想と「死生観」
世界的名声を得ていた大作家が、なぜ近代社会の只中で日本刀という古の武器に命運を託したのか。その理由は、三島の後期文学と行動哲学の根幹をなす「言行一致」と「文武両道」の探求にあります。
三島にとって日本刀は、言葉という虚構の世界に対峙する「肉体と行動の究極の具現」でした。評論『太陽と鉄』や小説『憂国』の中で繰り返し描かれたように、肉体の極限において魂を純化させる手段として、刃の冷徹な切れ味と武士道の美学が不可欠だったのです。近代の合理主義や戦後民主主義が喪失した「絶対的な価値」を自らの肉体に刻み込むための儀具として、関の孫六は選ばれました。
「本物か偽物か」鑑定をめぐる論争と真相の全貌
事件直後から刀剣界やメディアの間で激しい議論を呼んだのが、三島の愛刀が「名工・孫六兼元の真作なのか、あるいは偽物(後代作・銘の追刻)なのか」という点でした。
日本刀の歴史において「関の孫六」と称されるのは、室町時代後期(戦国期)に活躍した二代兼元を指すのが一般的です。二代兼元の作は武田信玄や豊臣秀吉ら戦国武将にも愛用された業物であり、文化財クラスの価値を持ちます。
事件後に刀剣専門家らによって行われた鑑定や形状分析によると、三島の所持刀は戦国期の二代兼元の真作ではなく、江戸時代以降の後代兼元の作、もしくは幕末から明治・大正期にかけて打たれた実用刀身に「関住兼元」の銘が施されたものである可能性が極めて高いと結論づけられています。
しかし、三島自身がその刀身の真贋をどの程度把握していたかについては諸説あります。「たとえ古作の名刀でなくとも、人を断ち自らを貫く強靭な実用刀であればよい」という実用本位の選定基準を持っていたという証言もあり、三島にとっては美術的な骨董価値よりも、刀に宿る切断力と象徴性こそが「本物」であったと考えられています。
市ヶ谷の激動と介錯刀の悲劇|森田必勝へ託された最期
1970年11月25日正午過ぎ、総監室で割腹自決を遂げた三島由紀夫。その背後で介錯の任に就いたのは、楯の会学生長であった森田必勝でした。介錯刀として用いられたのも、三島が信頼を寄せていたこの関の孫六でした。
しかし、極度の緊張と精神的重圧の中で行われた介錯は難航を極めます。森田が振り下ろした太刀は骨に阻まれ、三島を即座に絶命させることができず、複数回の太刀浴びせが行われました。最終的には居合の心得があった同会員の古賀浩靖が刀を受け継ぎ、見事に介錯を完了させました。
激しい衝撃を受けた刀身は大きくS字状に湾曲し、凄まじい刃こぼれを起こしていたと捜査記録に残されています。一振りの日本刀が放った生々しい衝撃は、事件の凄惨さと三島の執念を現場にいた全員の網膜に焼き付けることとなりました。
自決後の刀の行方|警視庁押収から現在の保管場所まで
事件現場から警視庁によって重要証拠品として押収された関の孫六は、一連の刑事裁判において物証として法廷に提出されました。裁判の過程では、刀身の損傷状態や血痕の付着状況などが詳細に検証されています。
裁判が終結した後、押収品は法的手続きに従って三島由紀夫の遺族(平岡家)へ正式に返還されました。一部では「どこかの博物館に寄贈されたのではないか」「海外のコレクターに渡ったのではないか」といった噂が飛び交いましたが、これらは事実ではありません。
現在、この日本刀は三島家の管理下において非公開の厳重な保管場所に眠っています。展示会やオークションに出品されることは一切なく、事件の記憶とともに静かに封印され続けています。
【三島由紀夫の日本刀】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三島由紀夫は日本刀の所持許可をどのように取得していたのですか?
A1:三島は生前、正規の銃砲刀剣類所持等取締法に基づき、各都道府県の教育委員会が発行する「銃砲刀剣類登録証」を取得した上で合法的に所持していました。楯の会での活動を含め、法令を遵守した手続きを踏んで入手しています。
Q2:介錯に使われた刀は「関の孫六」以外にもあったのですか?
A2:三島由紀夫および森田必勝の自決・介錯に使用された刀は、三島自身が持ち込んだこの「関の孫六(軍刀拵え)」一振りのみです。途中で介錯人が交代した際も、同じ刀が引き継がれて使用されました。
Q3:現在、三島由紀夫の愛刀を一般人が見学できる場所はありますか?
A3:一般公開されている施設はありません。裁判終了後に遺族へ返還された後は、平岡家関係者によって私的に厳重保管されており、三島由紀夫文学館などの公的施設でも実物の刀剣は展示されていません。
まとめ:半世紀を超えて問いかける「魂の象徴」
三島由紀夫が命を懸けて携えた日本刀「関の孫六」。それは単なる凶器や骨董品ではなく、言葉の魔術師と呼ばれた作家が、自らの哲学と美意識を現実世界に刻み付けるために選び抜いた「魂の象徴」でした。
名刀の真贋や衝撃的な使われ方をめぐる議論は尽きませんが、彼が遺した刀剣への執着は、半世紀以上が経過した現在もなお、戦後日本の精神の在り処を鋭く問いかけ続けています。 (出典: 三島 由紀夫 日本 刀(Yahoo!ニュース))